播州織とは

​播州織の歴史

寛政4(1792)年に京都から帰郷した飛田安兵衛は、習得した知識を生かし織機を作りました。西脇市域をはじめ播磨国では、温暖な気候を生かした綿花栽培が江戸時代中期から行われており、自給自足で衣料が作られていたことから、綿花を原材料とした織物が村々に次第に広がり盛んになりました。また、西脇市域は、播州平野から中国山地に移行する地形の変換点に位置しているため、加古川・杉原川・野間川などの河川が集まっており、染色業に不可欠な水資源が豊富なことから、織物業が発展する基盤が整っていたといえます。

 安兵衛は宮大工で、京都で菅大臣(かんだいじん)神社の再建に当たっており、そのかたわら織機製作を習得したことから、当初は「菅大臣縞」がなまり「勘大寺縞(かんだいじじま)」と言っていましたが、後に「播州縞」と改称しました。

 明治時代初めには、後の津万村を中心に60~70軒の綿布業者がありましただ、この頃の主な産地は、現在の西脇市以北の多可郡でした。しかし、明治時代後期から力織機の普及により、家内工業から工場生産への移行に伴い、西脇市域で生産力が急激に増加しました。また、「播州縞」から「播州織」と改称したのもこの頃で、明治39(1906)年の「第1回多可・加東・加西連合織物品評会」の知事訓諭で使われたのが最初だと言われています。

 大正期には鉄道が開通し、輸送力が大幅に強化されたことから、都市部での消費が拡大し「播州織」の名は全国に広がりました。第一次世界大戦までは国内出荷を専門としていましたが、大戦後は東南アジア向けの海外販路を拡大し、輸出向け中心の産地に転換しました。

 昭和に入ると業者数・生産額ともに飛躍的に増大し、世界恐慌の影響は受けたものの日中戦争勃発前後には、年産1億平方ヤードに達し、業者数270軒を数える黄金時代を迎えました。この頃には、女子労働者を県内外各地、さらには朝鮮半島からも募集していました。

 第二次世界大戦後、新製品の開発やアメリカ市場の開拓による販路拡大により、織機が一度「ガチャ」っと音をたてると1万円儲かると言われた「ガチャマン景気」と呼ばれる空前の好況時期を迎えました。生産が拡大する中、西脇市は昭和27(1952)年播磨内陸部ではじめて市制を施行、昭和30年代には西日本を中心に、多くの女子労働者が集団就職で西脇市にやってきました。

 その後も、新製品の開発や生産環境の改善により、海外市場における競争力を強化してきましたが、昭和40年代のドルショックやオイルショックなどの影響、さらには賃金の安い発展途上国での技術力の向上などにより、中小企業・零細企業が中心である産地は次第に厳しい環境におかれるようになりました。

 さらに、昭和60(1985)年のプラザ合意以降、急激な円高の進行による輸出環境の悪化を受け、輸出中心の産地は大打撃を受けました。このため、従来の海外志向から国内上の拡大に力を注ぐようになりました。その後もバブル景気の崩壊、デフレによる国内事業の低迷や安価な海外製品の流入により、厳しい事業環境が続いていますが、市場の多様なニーズを踏まえた多品種・小ロット・短納期に対応できる体制づくりやブランド化、産地組合組織の一本化など構造改革が進められています。

​播州織の特徴

糸の段階から染め上げる先染め織物であり、植物繊維の中でも綿花からとれる綿を中心とした細番手の織物が特徴です。ですが近年市場に対応するため新しい開発が進み、太番手や異素材を入れ込むなど更に多様な進化を遂げています。